さがの地名は、昔は「佐嘉」と書き、今のように「さが」と濁らず「さか」と呼んでいました。 現在でも佐嘉神社など昔の字を当てています。「佐嘉」の字は古く肥前風土記を始めとする古文書などにも見え、8世紀頃には、すでに公の地名になっていました。 「さか」の地名説は、日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの国に茂り栄えている楠の大木を見て「栄えの国よ」と言われたところから生まれたという説が一般的に知られていますが、しかし異説も10ほどあります。 「佐賀」の文字がみられるようになったのは、1600年頃(慶長年間)以後のことですが、以後も「佐嘉」の字は多く用いられ、混合して使われていました。 今日のように「佐賀」の文字に決まったのは明治2年の版籍奉還以後のことです。 |
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中原製菓は巨勢町の前は伊勢屋町(長崎街道)に会社・工場があり、その時の恵比須さんであります。推測として1700年代(江戸時代)頃の作成年代と考えられます。
江戸時代、伊勢屋町(現在は伊勢町)の沿道は長崎街道の要路として商売が繁盛し、また砂糖が流通した道でありました。
当社は戦後、東田代で、また昭和25年頃より伊勢神社と護国神社の中間の位置、大覚寺の横で菓子の製造をしていました。(現在は巨勢町に会社・工場があります)
恵比須さんは七福神の中で、唯一日本生まれの神様であり、様々なご利益があると言われています。
佐賀市内だけで808体が確認されていて、佐賀市が恵比須の数日本一であると認定を受けています。(平成23年)
恵比須さんを巡ると“幸せの気持ち”になれます!
佐賀地方では江戸時代の頃より飴を引き伸ばして大工道具のノミで切ったものを「ノミキリ」と言い、それが後年転じて「のんき」と呼ばれ、県民に広く親しまれたものです。
昔、佐嘉藩の武士達は戦場へいざ出陣の際は、携行し、戦陣の無卿と疲労回復に「のんき」を愛用したと言われております。
現在、当社では5種類の、のんき飴を製造しています。
以前は棒に引っ掛けて引き伸ばして、あめの中に空気の気泡を入れて、 白くして、まろやかな味にしていました。 現在は機械で回して空気の気泡をあめのなかに入れています。 |
江戸時代の頃は大工道具の「ノミ」で切っていたそうですが、その後ははさみを使用して切っていました。 現在はノミの刃先のような刃を何個か付いていて、それが回転してあめを切っています。 |
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